砦

兵どもが夢の跡

図ー島津侵攻

鹿_札

「島津氏の筑前への侵攻と秀吉への降伏」 豊臣秀吉が天下統一を視野にいれ九州平定を企てていた頃、九州では島津氏が勢力を拡大し九州制覇へと王手をかけていた。
1586年 島津氏は秀吉の九州での停戦勧告を無視し、筑前の大友勢征伐へと駒を進めた。
一方秀吉の大友への援軍も九州へと西下をはじめた。 筑前は島津軍と大友軍の戦い(岩屋城、宝満城、立花城高鳥居城)や、秀吉軍と島津勢の秋月氏との戦い(古処山城)の熾烈な攻防戦の舞台となった。
島津軍は岩屋城、宝満城を制し立花城へと駒を進めたが、秀吉軍の到着により撤退を余儀なくされた。九州制覇の野望は敢えなく潰えた。 1587年5月 秀吉は島津義久氏を降伏させ九州平定を成し遂げた。同時に九州戦国時代は終わりを告げた。

「岩屋城の戦い」

画像ー山と岩屋城跡

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岩屋城は四王寺山(414メートル)の中腹にあり頂上には7世紀に白村江の戦いで知られる大野城跡がある。岩屋城跡からは太宰府の街を見下ろすことができ、東には宝満山、北は博多方面を望み、南は筑後の連山、西は背振山まで視野にはいる。岩屋城は16世紀半ば(戦国時代)宝満城の支城として豊後大友氏の武将、高橋鑑種(あつたね)によって築かれた。後に吉弘鎮理(あきただ)(後の名将、高橋紹運(じょううん))が城主となった。
高橋紹運は宝満城・岩屋城を根拠として四方に睨みをきかせていた。

岩屋城跡

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1586年6月中旬北進をはじめた島津軍は途中肥後の諸将の傘下のもと5万〜6万の大軍となり進撃する。
島津の最大目標は筑前の大友拠点、立花、宝満、岩屋の3城を攻略し、北九州制圧を完了することにあった。1586年7月12日 その目標のひとつである岩屋城へ 島津軍5万人は押し寄せる。
一方 岩屋城は紹運以下763名の寡兵である。
それに先立ち、紹運の長男である立花城主立花統虎(後の宗茂)はわずかの兵で迎え撃つ覚悟の父へ、立花城への移動を申し出る。しかし紹運はその申し出を拒み、真っ向から対決し闘い抜くことを覚悟する。
秀吉援軍到着までの時間をかせぎ立花城の防波堤となることを決意した。自らを捨て石にしたのである。
7月27日ついに落城 死闘15日間 数知れぬ犠牲者の血潮によって終焉を迎えた。紹運は壮烈な玉砕をする。享年39歳。そこでは80倍という圧倒的な兵力の差で戦国史上最も激しい戦闘が繰り広げられた。

『宝満城の戦い』

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宝満城は太宰府市の東北にそびえる宝満山(868メートル)の山頂付近に築かれた城であり、頂上は素晴らしい眺望で南に筑紫平野、北に福岡平野と玄界灘、東に古処山、英彦山、西に背振の山々を望むことができる。この宝満山の南西方向に四王寺山がありその中腹にある岩屋城があった。
岩屋城を攻略し高橋紹運が玉砕した翌日には次の標的である宝満城へ押し寄せてきた。城攻めに先立ち降伏勧告をおこなった。城内では議論の末、紹運の跡取りである統増(むねます)(後の直次)(15歳)の無事を図り、降伏することを決意した。高橋家の捲土重来(けんどちょうらい)を期した。島津軍は統増やその母宗雲尼を拉致した。
後に 直次(なおつぐ)の4男は立花宗茂の養子となり柳川立花藩を継いだ。現在の立花家はその子孫である。

『立花城の戦い』

画像_立花山

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立花山(367メートル)は福岡市東区と糟屋郡新宮町の境にある。七つの峰に別れいずれも城郭として利用され九州最大の山城と言われている。大友氏の筑前の拠点として「西の大友」として呼ばれ重要な役割を果たしてきた。城址からの眺めは雄大で眼下に博多湾、福岡の市街地が一望に眺められる。その地理的優位から立花城は攻防の要として争奪戦が繰り広げられた。

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岩屋城、宝満城を攻略した島津軍の最後の目標は「立花宗茂」以下千5百人の兵が立てこもる立花城である。
1586年8月はじめ島津軍は太宰府から香椎へと陣を移す。島津勢は立花勢へ和議を申し出たが、宗茂は徹底抗戦の構えをする。ここにいたって立花城への総攻撃を8月18日とする。
立花勢は5万人の島津軍を打ち破る名案もなく玉砕するしか道はないように思われた。そこに内田壱岐老兵がすすみで、援軍到着までの日数をかせぐ必要をといた。策略でもって攻撃の延期をさせようというものであった。宗茂の偽の書状をたずさえ島津陣に単身でのりこんだ。降伏するが開城するまでに時間が欲しい旨を申し出た。島津軍はそれを信用し、総攻撃の18日は中止される。
その頃 秀吉の援軍が門司に到着し立花城へと向かっていた。その知らせは両陣が知ることとなった。立花軍にとっては「大吉」、島津軍にとっては「大凶」である。島津軍は動揺した。敵陣のなかで孤立する可能性がでてきたのである。急ぎ撤退を余儀なくされた。覇者島津の野望はあと一歩のところで頓挫してしまった
島津軍の立花城攻めに関しては、いくつかの説がある。攻撃はしなかったものの包囲網はとったものと思われる。

高鳥居城の戦い

画像_高鳥居城跡

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糟屋郡篠栗町と須恵町の境にある若杉山から西にのびた支峰岳城山(382メートル)の山頂が「高鳥居城」である。
1586年 薩摩の島津勢は筑前に侵入、岩屋・宝満の両城を攻め落とし、立花城へと迫っていった。しかし豊臣秀吉の大軍が近づいたことを知り、筑後の有力国人星野吉実(ほしのよしざね)、星野吉兼(よしかね)兄弟を撤退の後詰めとして高鳥居城を守るよう命じ、肥後・八代を目指し撤退をはじめた。
立花城の立花宗茂は引き揚げる島津勢に追い討ちをかけるとともに、若杉の峰に本陣を構え高鳥居城を落城させた。
戦後 宗茂は島津軍に置き去りにされた気の毒な星野兄弟の首を丁寧にあつかい葬った。その場所が今の福岡市博多区の吉塚であり「吉塚地蔵尊」がそれである。 時運により勝敗の明暗がわかれ、武士として義を守り散っていった星野兄弟である。

古処山城の戦い

画像_古処山

古処山搦め手門

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筑前の小京都と言われる朝倉市秋月の背後、嘉穂郡嘉穂町境に聳える古処山(860メートル)の山頂が城跡である。
1587年豊臣秀吉が九州へ侵攻してきた時、薩摩の島津と組んでいた秋月種実(あきづきたねざね)は秀吉の力を甘くみていた。しかしひと月はかかるだろうと思われた豊前一の堅城が一日で落城したのを見ると、種実親子は秀吉の力を知り恐れをなした。古処山城からおり秀吉の前にひれ伏した。助命はされたものの所領は没収され日向(宮崎)の高鍋に削封された。また昨日までの盟友島津を討つ先陣にたたされた。
先に家臣の恵利暢尭に秀吉軍を偵察をさせていた。秀吉の圧倒的な軍勢を目の辺りにした恵利は、種実に島津と縁をきり秀吉の傘下にはいることを進言する。しかし種実ほか家臣は耳を貸さず臆病者扱いにしたため、暢尭は妻子ともに切腹し死をもって主君を諌めたという事実があった。
秋月氏は鎌倉時代(1203年)からの名門であった。一時大友氏に攻められ存亡の危機をみるが、種実が毛利氏庇護のもと返り咲き筑前最大の戦国大名とまでなった。しかし秀吉の出現により改易は免れたものの650年つづいた秋月家の地「秋月」を踏む事はなかった。



参考資料:(1)「九州の古戦場を歩く」吉永正春 著 (2)「秋月を往く」田代量美 著(3)「福岡古城探訪」廣崎篤夫 著(4)「太宰府戦国史」吉永正春 著(5)「太宰府史」(6)「立花宗茂」河村哲夫