お城と武将

筑前の名将

図ー筑前の名将

夜桜

九州は優れた多くの武将を生み出した。
戦国時代という厳しい時代に生を受け、戦いの宿命を背負いながら生き抜いた武将達である。
彼らは激しくもはかなく展開する九州戦国絵巻の戦いに 栄光と挫折を繰り返しながら怒濤のごとく駆け抜けていった。
多くの名将のなかで、九州戦国終焉を厳しくも儚く飾った筑前の名将「高橋紹運(たかはしじょううん) 」「立花宗茂(たちばなむねしげ)」「秋月種実(あきづきたねざね)」を紹介する。

高橋紹運

画像_高橋紹運

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「高橋紹運(じょううん)」は、23歳で宝満・岩屋城主となり名将の誉れ高かった。岩屋城は太宰府を見下ろす四王寺山の中腹にある戦国時代の小城である。宝満城とともに豊前(大分)の大友氏の支城である。
そこへ1570年 主君大友宗麟の命で「吉弘鎮種」は着任した。その際に「吉弘鎮種(しげたね)」から「高橋鎮種」と名乗る。その後剃髪し名を「鎮種」から「紹運」と号したので一般には「高橋紹運」で知られている。武勇にすぐれ主君一筋の節義を重んじる武将であった。
1578年 薩摩の島津家に大敗して以来、凋落の一途をたどる大友家を見捨てず、盟友・立花道雪と共に孤立する筑前で反大友勢力を向こうに廻し奮戦した。主家大友家に節義を貫き一身を尽くした武将である。

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1586年 紹運の最後の戦いである「岩屋城の戦い」は、日本の戦国史に於いて最も苛烈な激戦といわれ、豊臣秀吉の天下統一にも深い関わりを持った。
九州制覇を狙う島津軍は5万の大軍で「岩屋城」に押し寄せる。岩屋城では僅か約700名の寡兵である。紹運は島津の降伏勧告も愛児立花宗茂の救援も謝絶。武士の誇りと信念をもち、また我が子とその子が守る「立花城」の捨て石を覚悟の上、真っ向から対決する。約80倍の敵と攻防半月、熾烈極まる戦いについに力つき自刀する。城兵763名と共に玉砕した。信義を貫き華々しく散った。それは悲壮感ただよう血なまぐさい戦場のなかに咲いた一輪の花が散るごとくであった。享年39歳。
豊臣秀吉は、翌年大軍をもって九州に侵攻し島津家を降した。戦後、大宰府に立ち寄った秀吉は、戦国最強を誇る最盛期の島津氏に、僅かな城兵で迎え撃ち、城兵と共に散った紹運を『乱世の華』と称え彼の死を惜しんだ。

立花宗茂

図ー宗茂履歴

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「立花宗茂(たちばなむねしげ」は高橋紹運の長男である。4歳のときに父につれられ豊前から太宰府へときた。宗茂は父に似て体も大きく、太く短い猪首はどっしりすわり、眼光炯々として非凡の相をしていた。彼の素質を見抜いた筑前の大友家支城 立花城主「立花道雪」は宗茂を養子に迎える。宗茂15歳のときである。道雪と紹運は筑前で大友家を支えたいずれも名将であり盟朋であった。

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1586年 九州の覇者島津軍は岩屋城・宝満山を落城させ、いよいよ宗茂守る立花城へと駒をすすめてきた。既に養父「道雪」はなく、実父「紹運」も島津軍により岩屋城で自決したばかりであった。宗茂 若干19歳の時である。
宗茂は死を恐れず戦うことを決意する。しかし敵は5万の大軍、一方立花兵は1500名である。もはや玉砕の覚悟であった。
その頃 秀吉の援軍が門司に到着し立花城へと向かっていた。島津軍はそれを知ると動揺した。敵陣のなかで孤立する可能性がでてきたのである。ここにきて万事休す 島津の九州制覇の野望は露と消えた。一方 宗茂には好機到来、父の弔い合戦へと若武者は奮い立ち、岩屋城、宝満城を奪還し高鳥居城で星野兄弟を敗り、逃げていく島津軍を追っていった。
九州平定を終えた豊臣秀吉から「九州一のもののふ(勇者)」と激賞され立花城主から筑後柳川初代藩主へと抜擢された。

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1600年の関ヶ原の戦いでは石田三成率いる西軍につく。西軍は敗れ帰還した宗茂に家康からの報復がまっていた。立花宗茂は改易となり柳川城を開城した。大名から一介の浪人となった。
住居だけは先に朝鮮の出兵で恩義を感じ無二の親友となっていた「加藤清正」から、肥後高瀬に与えられた。

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画像_立花宗茂

1602年 いつまでも清正の食客でいることはできず江戸へ流浪の旅に出る。24名の従者である。世の中がまだ定まらず幕藩体制を作りだす時代であった。宗茂の秀吉の「朝鮮征伐」時の実績、先の負けたとはいえ「関ヶ原の戦い」での戦いぶりなど、実力と誠実さを兼ね備えた武将を放っておかなかった。1604年忠勝の推挙で江戸城へ召し出され征夷大将軍家康から5千石の禄を給与されることになる。1606年には磐城棚倉(福島)1万石の城主となる。その後宗茂は大阪、冬、夏の両陣でも活躍し忠誠ひとすじに励み、次第に加増されていった。

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1620年 その時がきた。筑後柳川11万石の領主に再封され懐かしい旧領に戻った。柳川を去って以来20年 宗茂すでに54歳であった。改易された大名が再び旧領に復帰することは異例のことであった。
1642年75歳で江戸の下谷の邸にて病没し波乱の生涯を閉じた。

秋月種実

図_秋月種実履歴

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「秋月種実(あきづきたねざね)」の人生はまさに怒濤のごとき人生であり、その大半は仇敵大友への闘志によって貫かれている。
1557年大友家との戦いで種実の父「秋月種方(たねかた)(文種ともいう)」は名のある武将とともに討ち死にし秋月家は滅亡寸前の淵にたたされる。鎌倉幕府から筑前秋月の地を賜り、350年に亘って連綿と続いた秋月家もついに没落の憂き目をみるに至った。
しかし当時14歳であった種実ら遺児3人は辛うじて近臣に守られ脱出、周防の毛利元就のもとに身を寄せることになった。他家で苦労して成長し辛酸に打ち勝つ忍耐力を身につけた。

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月日は流れて10年後、種実は24歳になった。
大友家の家臣であった高橋鑑種(あきたね)の大友家への謀反により、秋月奪還の機会が到来する。このとき種実は鑑種から秋月復帰に際しての援助の確約を得る。青年武将種実は毛利元就支援の兵3千を率い、大友の兵を蹴散らし無事古処山城を奪還する。さらに「休松城の戦い」で秋月勢は強敵大友家に大勝を得る。
種実は筑前の将として名声を高め、悲願の秋月家再興を成し遂げその栄光が輝いた。種実は宿敵大友家との戦いを繰り返しながら北九州最大の36万石の秋月家へと繁栄を導き全盛期を迎えた。

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1587年3月豊臣秀吉は九州征伐により西下をはじめる。このとき種実は薩州島津氏と合体し秀吉軍を迎え撃つことにする。秀吉軍を偵察してきた臣下恵利内蔵助暢尭の諌めに耳を貸そうともせず、籠城を決意する。しかし1ヶ月は持ちこたえると思われた岩石城を秀吉軍は1日で攻略する。それをみた種実は恐れをなし、秀吉の前にひれ伏した。
助命はされたものの日向の高鍋に削封となった。北九州最大の36万石から僅か3万石へと減らされた。およそ380年つづいた先祖の地が遠くなるにつれ「たとえ10石でもよいこの地に留まりたい」と悲痛な声を洩らしたという。 時流に逆らえず己の運命を嘆いているとき、命を賭けて戦った宿敵大友宗麟の訃報をきく。どのような感慨をもったかは知る由もない。
1596年伏見の館で52歳の波乱の生涯を閉じた。二度の敗戦の屈辱に耐えながら、王朝以来の名族大蔵氏の誇りをもち戦い生き抜いた生涯であった。のちに秋月家から名君の誉れ高い「上杉鷹山(うえすぎようざん)」を輩出している。



参考資料:(1)「戦国挽歌 高橋紹運」西津弘美 著(2)「九州戦国の武将たち」吉永正春 著(3)「立花宗茂」河村哲夫 著(4)「秋月を往く」田代量美 著