秀吉と箱崎宮

秀吉と九州

画像_箱崎宮

札_月

1587年 九州制覇を目前にした九州の覇者島津を降伏させ、豊臣秀吉の九州平定が達成された。同時に九州戦国時代も終わりを告げた。
九州は秀吉の登場によってその政権下に組み込まれ大きな影響を受けた。とくに商人の町博多は 約400年を経た現在でもその栄光をみることができる。
秀吉の九州平定は天下統一への王手であった。また「大陸出兵」(明・朝鮮出兵)への妄想を描いていた秀吉にとって、 博多を出兵の兵站(へいたん)基地とする構想がまとまり それは現実となった。その出兵は秀吉政権を破滅へと導くものであった。

博多と秀吉

画像_博多町割り

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島津を降伏させた後、秀吉は筑前博多の箱崎宮にはいった。20日ほど滞在し九州の国割り(知行割り)を行った。これまでの幾多の戦いで荒廃した博多の町造り「太閤町割り」を行い復興に力を注いだ。復興にさいして秀吉が博多に与えた「定書」は すべての商人、職人の営業を自由にする「楽市楽座令」と言われる商業政策だ。また博多の町に侍が住むことを禁じるなど 秀吉はどの地域よりも博多の商業を重視し手厚く保護した。「町割り」は社会基盤であるハード面の充実、「定書」は商人とその商業活動を保護するソフト面の充実である。これらは秀吉の博多への熱い情熱が伺える。それによって急速に復興がすすみ「近世都市博多」の基礎となった。


利休釜掛けの松

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秀吉は箱崎滞在中に 千利休や神屋宗湛(かみやそうたん)らと茶の湯の会を催し連歌を楽しんだ。黒田如水の叔父小寺休夢(こでらきゅうむ)が「たてならへたる門のにぎわい」と下の句を詠むと、秀吉は「博多町幾千代まてやつのるらん」と上の句を詠んだ。復興をとげ発展していく博多に思いを寄せる秀吉の句である。利休が秀吉の命により 松に鎖をおろし雲龍の小釜をかけ、白砂の上に散り敷いた松葉をかき集め、秀吉、休夢、宗湛らに茶をわかしたという「利休釜掛けの松」記念碑を九州大学医学部構内の一隅にみることができる。

秀吉と黒田如水

画像_黒田如水

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『秀吉時代の官兵衛』 「黒田官兵衛」のちの「黒田如水」は秀吉を天下人と登らせた有能な秀吉の軍師であった。「本能寺の変」後の電光石火の如き秀吉の行動は 官兵衛の助言と働きがあってこそ為せたのである。その働きによって秀吉は天下人の階段を着実に登り始めた。官兵衛はその後も秀吉の軍師として采配をふるった。彼は誠実篤徳な人物であり、文雅の道にも明るかった。その才能ゆえ秀吉からは信頼されながらも 密かに敬遠され恐れられたという。

福岡城本丸

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『天下をねらった官兵衛』秀吉の死後関ヶ原の戦いがおこった。この時 官兵衛は混乱に乗じて天下を掌握するつもりだったという。
このころ家督は息子の「長政」にゆずり、名を「如水」とあらため隠居の身であった。長政は東軍につき関ヶ原に出陣した。如水は九州を動かず、九州の牢人をあつめ九州を席巻(せっけん)する勢いをみせた。如水はこの戦いは100日はかかるだろうと推測していた。その間に九州を制圧し、その勢いで徳川家康と戦うもくろみであった。しかし戦いは1日で勝敗がついてしまった。それは皮肉なことに、我が子長政の敵軍を寝返させた功績によるものであった。
関ヶ原の戦い後、如水は家康に東軍のために戦ったと主張した。しかし家康は彼の不穏な動きを察知していた。家康は戦後の恩賞を息子長政にだけに報いた。

如水屋敷跡

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『福岡での官兵衛』家康は黒田長政に筑前52万石を戦功として与えた。福岡藩主「黒田藩」の誕生である。如水は愛息長政とともに1601年筑前福岡に入った。筑前福岡入国後 如水が詠んだ連歌が「松竹や、末永かれとみどり立つ、山よりつづく里は福岡」である。筑前福岡に入った如水親子は福岡城築城に着手する。
福岡城完成後、三の丸通称「御鷹屋敷」で妻と二人隠居生活に入った。
五十二万石の大候にして質素な館、質素な食事であった。天満宮には多くの寄進をし神仏にも礼を尽くす日本古来の神仏信仰者でもあり、生涯正室一人を守った敬虔なクリスチャンでもあった。
小豪族から天下を狙うまでにその智才のみでのし上がった如水。その知勇ゆえに天下人に恐れられた天才軍師如水であったが 晩年は福岡の地で静謐に暮らした。59歳の春に病気のためこの世を去った。『おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて』(思い残すことは、もう何もない。迷うことなく心静かに身を任せるだけだ。)水の如くである。

博多豪商と秀吉

博多べい

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九州平定後の 博多は16世紀末の度重なる戦乱により焦土化していた。秀吉は朝鮮への侵攻を視野にいれ博多の町造りに着手した。それには博多の豪商として、また茶人としての「島井宗室(しまいそうしつ)」「神屋宗湛(かみやそうたん)」の財力が必要であった。秀吉の箱崎滞在は約20日におよび、この間連日のように茶会、連歌会などが催された。これらの文化的交流をとおして豊臣政権中枢部と博多の豪商や町衆は結びつきを深めていった。
宗室、宗湛は秀吉の「博多町割り」(戦災復興都市計画)に協力し奔走した。たくましく蘇った市街には「博多べい」と呼ばれる土塀が長く連なった。そのときの「博多塀(べい)」が博多の櫛田神社に残っている。その塀には焦土と化したがれきが埋め込まれてあり美しい。当時の心意気が伝わってくる。

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宗室は秀吉に「武士と町人はどちらがよいか」と言われ、「武士は嫌いです」といった話が残っている。彼らはときの権力者に臆することもなくものを言えた立場であった。
彼らは秀吉の無謀な戦略戦争のなかで翻弄されながらも、天下の政商として活動した。しかし秀吉政権の終焉とともに天下の豪商の地位から凋落し、黒田藩の一御用商人として生きることになった。

秀吉野望の終焉ー名護屋城

名護屋城太閤碑

画像_名護屋城模型

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名護屋城は1592年の「文禄の役」と1597年の「慶長の役」の「明・朝鮮出兵」拠点となった。秀吉は関白就任直後から大陸侵攻(明・朝鮮出兵)の意思を表明していた。1590年天下統一を終えた秀吉はいよいよ大陸侵攻を目指した。1591年に九州諸大名に肥前名護屋(佐賀県東松浦郡鎮西町)に築城を命じた。名護屋城である。当時の大阪城に決してひけをとらない巨大な総石垣の城である。その意味では国内最大の陣城であった。これまで海岸沿いの一村落であった名護屋には、全国から諸大名が続々と集結し陣跡を構えた。日本史上例をみない一大軍事都市の出現であった。
この戦争によって戦渦が及んだ朝鮮半島は焦土となるが、名護屋城内では「能舞台」や「茶室」が設けられ桃山文化を持ち込んだ日常であった。秀吉の死によってこの城の役目は終わる。わずか約7年の使用に供され、その後廃城となった。

名護屋城址_写真

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この朝鮮侵略戦争は秀吉の生涯において最も無謀で愚かな戦いであった。遠い国外での膠着した戦いによる日本軍の疲弊、そしてなにより朝鮮民衆は悲惨さをきわめた。朝鮮半島を荒廃させたでけでなく、秀吉のこれまでの輝きは 曇り始め挫折へと導いた。さらに秀吉亡き後の秀吉政権崩壊の一因も芽生えさせた。
400年の風雪に耐えた名護屋城の石垣の威容は 当時の秀吉の権力を物語り その権力に翻弄された時代や人々に思いを馳せるに充分である。



参考資料:(1)「福岡県の歴史」川添昭二 他著(2)「秀吉の野望と誤算」笠谷和比呂 他著(3)「中世・近世博多史論」川添昭二 著(4)「秀吉と博多の豪商」工藤静也 著(5)「城と秀吉」小和田哲男 著(6)「博多商人」読売新聞西部本社編(7)「黒田如水_歴史群像シリーズ」学習研究社発行(8)「佐賀県立 名護屋城博物館」カタログ

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