筑前戦国時代地図

九州の戦国時代

図_九州覇権争い

三氏鼎立時代

戦国九州地図

札_兜

九州での戦国時代の1560年代からは大友宗麟、肥前の龍造寺隆信、薩摩の島津義久の三大勢力の拮抗の時代であった。
その均衡は1578年の「耳川の戦い」で大友家が島津家に大敗したことにより崩れた。それより大友家は次第に衰退の道をたどった。
かって九州に覇をとなえた大友宗麟に昔日の勢いはなくなり、九州で最強となったのは南の島津、西の龍造寺となった。
肥前の熊と恐れられた龍造寺隆信は大友の衰えの隙に勢力を伸ばしていた。しかし1584年の「沖田畷(おきたなわて)の戦い」で島津軍の巧みな戦略により敢えなく敗れ斬首された。ここに島津は旭日の勢いとなりそれに多くの肥筑の諸将は従った。

一方 国内では 豊臣秀吉が天下統一への階段を着実に登っていた。秀吉は九州で侵略をつづける島津に対して停戦勧告をした。島津は名門の誇りと、秀吉への侮りからその勧告を無視し九州制覇の野望を抱いた。
島津の九州制覇への野望は、いまだ豊前、豊後、筑前、筑後に存在する大友の勢力を潰すのみとなった。いずれ西下が予想される秀吉軍の侵攻を前に九州制覇達成へと傾いていく。

島津氏九州制覇へ

画像_筑前戦国地図 立花城の戦い 高鳥居城の戦い 宝満山戦い 岩屋城の戦い 古処山城の戦い

札_兜

1586年 島津義久は筑前に主力を注ぎ東西二手による北進侵攻開始する。無二の島津方である「秋月種実」の豊後討伐へ先立ち筑前平定の必要の献策による。
7月に5万〜6万の大軍で筑前の拠点太宰府の「岩屋城」へ押し寄せる。国内戦国史上で最も厳しい戦と言われる熾烈な攻防戦であった。城主「高橋紹運」をはじめ全員を玉砕させ、その背後の「宝満城」の城主を降伏させた。九州制覇王手となった島津軍は「立花城」へと陣を進める。陣は太宰府から香椎へと移った。

秀吉の九州平定

画像ー秀吉_燈籠

札_兜

天下統一を進める関白秀吉にとって、侵略をつづける島津の振る舞いは見過ごすことができなかった。秀吉は島津義久に停戦の勧告をするが、鎌倉いらいの名門薩摩守護職を誇る義久はその勧告を無視する。かくて秀吉の九州征伐が決定し25万の大軍が編成された。秀吉の天下統一の舞台は九州へと移る。

1586年 秀吉軍の援軍先遣隊が九州へ出発する。援軍到着は島津軍の「立花城」への攻略を目前にしたときであった。島津の九州制覇の野望はここで無惨に頓挫してしまった。
このとき「立花城」の城主「立花宗茂」は島津勢「高鳥居城」の星野氏と戦い、また南下する島津勢に攻撃をかけ果敢に戦った。
1587年3月1日 秀吉自身が九州へと向かい、筑前では島津勢「古処山城」の「秋月種実」を降伏させ、南下する島津氏に迫っていった。
1587年7月 島津は薩摩川内で戦わずして秀吉の軍門に降りる。これによって豊臣秀吉の九州平定が達成され、同時に九州戦国時代は終わりを告げた。

その頃国内では

時代区分図

西暦国内での主なできごと
1560年 桶狭間の戦い
1568年 信長 将軍足利義昭を奉じて入京
1573年 信長 将軍足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼす
1582年 本能寺の変
1585年 羽柴秀吉、長宗我部氏を下し、四国平定
1587年 豊臣秀吉、島津氏を服従させ九州平定
1590年 豊臣秀吉、関東の北条氏を滅ぼし天下統一


参考資料:(1)「九州戦国合戦記」吉永正春 著(2)「立花宗茂」河村哲夫 著(3)「福岡県の歴史』川添昭二 他著